合気道開祖 語録

 

 いま私がやっております合気道とは、人をこさえる道、心身鍛錬の道であります。人をなぐったり、邪剣をふりまわして人を殺す道ではありません。私は今まで、各流儀を三十流ほどやりました。柳生流の体術をはじめ、真揚流、起倒流、大東流、神影流などいろいろやりましたが、合気はそれらを総合したものではないのであります。

 

 合気はすべて気によるものであります。すなわち精神は風波のごときものなのであります。精神に病気を起こさず、精神が遊びにいっておるのを統一するのが合気であります。世の中はすべて自我と私欲の念を去れば自由になるのであります。

 

 合気はこういう精神の道と体の道とが一つになって進むのである。合気は真実そのものの現われであって、愛で世の中を吸収、和合させ、いかなるものができても、これを和合してゆくのである。我々は真の世界人類を至仁、至愛に同化させてゆかねばならない。

怒ってくればこれを和するのである。武士のことを「さむらい」というが、これは愛の道に従順という意味であって、やたらに斬り合うのがさむらいでなないのである。神、肉体ともに鍛錬しあって国の柱となり、愛の運動に進みたいと思う。

 

 

 真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の愛こそ愛の現われなのである。
 だから武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない。

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 すなわち、絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」に打ち勝つことである。
己に与えられた使命を成しとげることである。


  昔から武道は誤って人命を絶えず殺し合う方向に進んできたのであるが、合気は人命を救うためにあるのである。すなわち人殺し予防法が合気の道である。人を殺すなかれが合気であり、「合」は「愛」に通じるので、私は、私の会得した独自の道を「合気道」と呼ぶことにしたのである。従って、従来の武芸の人々が口にする「合気」と、私のいう「合気」とは、その内容、本質が根本的に異なる。このことを皆さんはよく考えてほしいと願うものである。

 さきに述べたように、この道は、相手と腕力・凶器で戦い、相手を腕力・凶器で破る術ではなく、世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。神の「愛」の大精神、宇宙和合の御働きの分身・分業として、ご奉仕するの道である。この道は宇宙の道で、合気の鍛錬は神業の鍛錬である。これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである。


  植芝の合気道には敵がいないのだ。相手があり敵があって、それより強くなり、それを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いである。真の武道には相手もいない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することだ。合気道で強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立てようと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要なのである。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道なのである。

 私の武産(たけむす)の合気は宗教から出てきたかいうとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内である。

 私はいかなる時、どんなことを仕掛けられてきても平気である。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせしているのです。剣をもって立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬの執着を絶ち、神様におまかせの心でなければならない。
合気道においては、こちらから攻めるとうことは絶対にない。攻めかかるということは、己の必勝の自信の足らざる証拠であり、すなわちその気持ちがすでに己の精神の負けを感じていることにほかならぬからである。

 合気道においては、絶対に相手に無理に逆らおうとはせぬ。相手の攻めかかってくる無謀なる力を全面的に利用して、相手が己の無謀なる暴力のゆえに自らを抑制することができず、自ら空転して倒れるよう、気・心・体の妙用をもって導くだけの話である。したがって、相手に無謀なる暴力があればあるほど、こちらは楽なのである。

 

(柏樹社 "合気神髄" 合気道開祖・植芝盛平語録より抜粋)